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海淵の仔

  • 宮間 怜一
  • 5 日前
  • 読了時間: 7分

 海のど真ん中で、子供を拾った。

 東の港から戻る船旅の途中、オルカンシアの群れに遭遇した。群れというより、何かに群がっていると形容するべきか。──その中心に、人間の子供が浮いていた。

 オルカンシアたち海獣の類いは、自分の子供の呼吸を助けるため、水面へと押し上げる習性がある。稀に同じ要領で他の生物をも助けることがあるとは聞いていたが、実際に目にしたのは船に乗るようになって十数年、初めてのことだった。

 少女は多少体温の低下がみられたが、命に別状はないそうだった。

 ただ、目を覚ますのには時間がかかった。海から少女を引きあげた際、少女はオルカンシアによく似た形状の、大きな真っ黒い浮きにしがみついていた。少女は海の只中、魔法でこの浮きを造り出し、それによって魔力切れを起こしてしまったのではないか、というのが船医の見解だった。

 オルカンシアは俺たち船乗りにとって身近な生き物にして、俺たちの航海を見守る神の使いだとも言われている。他に船も何も見当たらない中、オルカンシアに囲まれて独りこんな沖に浮かんでいたこの子供を、うちの船員どもは神の子かはたまた妖物魔物かと畏れをなしていた。

 それもあって少女は目覚めて最初に言葉を交わした俺にいたく懐いてしまい、子育てなど全く縁のないこの俺が子供と二人暮らしするはめになってしまったのだ。


 はじめのうち、俺は同じ年頃の娘さんのいる船員の一家に厄介になるのがいいんじゃないか、と勧めたのだ。実際一度は言ったとおりに引き取られていったのだが、結局戻ってきた。

 問題児だった訳ではない。むしろ大人しく礼儀正しい、よくできた子供だった。向こうの娘さんとも問題なく仲良くしていたのだが、そのうえでずっと俺のことを知りたがっていたらしい。見かねた奥さんからの進言で俺の家に住まわせることになったのだ。


 気に入られた要因は強いて言えばひとつある。

「あなた、どうして『おれ』って言うの?」

 船でこいつが目を覚ましたあと、ひととおり状況説明をしたのちに質問があるか尋ねたところ、最初の質問がそれだった。

 事故の直後で混乱しているのか、特別呑気で頓珍漢な奴なのかは判別がつかない。その前の起きがけの第一声が『ここはどこ』でも『あなたはだれ』でもなく『おはようございます』だった辺り後者かもしれん。

「自分で自分をなんと呼ぼうが俺の自由だろ?」

「おかあさんに怒られない?」

「フハッッ」

 子供らしい観点に思わず吹き出した。人ならぬものにはそうそう出せない台詞だろう。

「俺ぁもう親とは離れて暮らしてるよ……お前さんは怒られんのか」

「おにいちゃんとお揃いがいいの。おにいちゃんは自分のことを『おれ』って言うし、友だちは『ぼく』って言う。おかあさんも友だちのおかあさんもそれで何も言わないのに、わたしが『おれ』とか『ぼく』って言うと『女の子なのに!』っていつも言う」

「そりゃ理不尽だなあ」

「そう思う?」

「個人的にはな。さて今後だが、俺たちはまずその母ちゃんや兄ちゃんのところにお前さんを送り届けてやりたい。ただ、どうしても数日かかる。この船は一度俺たちの街に帰らないといけないから、お前さんを元いた街に送るのはその後になる。しばらく俺たちと一緒に過ごしてくれるか?」

「……わかった」

「よし。そしたらせっかくのことだ、俺たちといる間は『俺』でも『僕』でも好きにしたらいい。安物でよけりゃ服も買ってやろう」

「……! うん!」

「いい返事だ」

 甘やかしたと言えるほどのことではないと思うが、思い当たるのはその程度だ。目覚めて最初に会話して、野郎ばっかの船の中で数少ない同性で、あくまで『最初に』信用しやすかった相手が俺だったのだろう。

 その後、まさかこいつの故郷が誰も航路を知らない空の上にあり、『俺』も『僕』も試して『私』に戻ってくるほどの長い時間を共にするとは想像もしていなかった。


 リンは街の子供たちとも充分馴染んでいたが、それよりも俺と過ごす時間を喜んだ。遊んでいろと言っても家事をしていると手伝いに来たし、暇な時期に職場に連れていってやったら大層喜んで、自分もなにか手伝わせてほしいとかなりゴネた。

 仕方なく簡単な事務作業を手伝わせることにした。以降は職場に居座ることとなり、一番若い事務員に世話を任せていたのだが、真面目で要領がよく、空いた時間で勉強を教えてやっているが嫌がるどころか知識が増えて楽しそうにしているとのことだった。俺とは別の部屋で過ごすことになったが同じ屋根の下にいるだけでも心持ちは変わるらしく、休憩時間に顔を合わせると恋人に会えたかのような笑顔を見せた。

 手がかからないのは結構だが、利口すぎるのがかえって気がかりだった。

 家族や故郷、友人が恋しくて当然の日々の中、こいつは極力そういう感情を表に見せないようにしていたのだ。

 リンの故郷の名はユーステラ。そこらの山より遥か高い上空を雲のように漂っている浮島だという。こいつはその島から落下したのだと。

 ふつうそんな場所から落ちたら死ぬだろう。出会ったときに抱えていた影色の浮きのように魔法で落下傘でも造ったのかと尋ねたが、どうも落下前後の記憶が抜け落ちているらしく、真相はわからないようだった。

 『兄も島から落ちたかもしれない』。

 ぼやける記憶の淵。落下の恐れがある島の端にリンがなぜいたのか。曰く、兄と外で待ち合わせをしたのだと。母親の誕生日のサプライズをするために、人の来ないところで作戦会議をしようとしたのだと。

 無論あいつを海で拾ったときに付近の海は粗方探ったし、帰港後もユーステラへの渡航手段を探る傍らで近隣の港で少年の目撃情報を聞いて回った。今のところそれらしき情報はない。『兄は島から落ちておらず、今もユーステラにいるんじゃないか』というなんの根拠もない可能性を示唆し、一応宥めはしたが、果たして気休めになったものか。

 自分の最たる拠り所、最愛の人間が、隣にいない。

 生きているかさえわからない。

 たまに寝室で泣いている声が聞こえることもあるが、仕事を覚えるのにやりがいを感じ、知らない料理に目を輝かせ、たまにちらちらと俺を見ては笑顔を見せる、そこに演技はないと思う。一番ではなくとも多少は、俺を慕ってくれているはずだ。

 姉になるには歳が遠く、母になるには近すぎる。まして兄にはなりようがなかったが、こいつの胸に空く穴を束の間埋める何かになりたかった。


 夜。子供の寝静まる時間。戸棚の奥にしまってある背の低いグラスを取り出して、酒を注ぐ。

 あいつも仲間である以上職場の集まりには連れていったが、家で二人で飯を食うときはなんとなく飲もうという気が起きず、こういうひとりの時間に少しだけ飲むようになっていた。

 静かな家。灯りも最低限に絞る。ある種瞑想のような、昼間は見えない聞こえないものに耳をすまし瞼の裏で目を凝らすような時間に身を浸す。

「チェリッシュ」

 そうしていると時折やってくるのだ。『影』が。

 暗闇に同化していた黒猫が歩いてくるみたいに、音もなく。

 灯りの届かない背後から伸びてきた両腕が、容易に振りほどけるようなごく弱い力で俺を抱き締める。

「わたしのこと、好き?」

 囁く声が、耳のすぐそばから聞こえた。

 絡みついた腕を指先で撫でる。出会った頃と比べれば随分と手足が伸びた。

 夜の海からやってきたこいつは、実のところ液体のように不安定だ。拠り所だった相手を失い、どころか見知った人間のひとりもいない街で、他人の善意だけに生かされている。だからこんな静かな夜は自分が段々わからなくなって、輪郭が闇に融けてゆく。

 自分を養ってくれている人間に媚びを売っているだとか、情愛と何かを履き違えているだとか、そんなものではない。もっと純粋に、切実に、何かを求めて縋っているのだ。

 声のした辺りに手を這わすと、髪に、次いで頬に触れた。身体をひねり、もう片方の手も、闇へ。両頬を包むようにして、深淵と見つめあった。

「……愛してるよ」

 必要な言葉だけを贈る。

 ひとのかたちを取り戻した子供は満足そうな顔をしていた。

「わかったらとっとと寝るんだな」

「ふふ」

 頬を包む俺の手を愛しそうに見つめ、頬ずりし、啄むように掌に向かってキスをしてきたところで「コラ」と叱ってその頬をもみくちゃにしてやった。リンはいたずらが成功したみたいな表情をしていた。

 まったくこいつは、と思いながらも、まぁ、ガチガチのいい子でいられるよりは安心できるか、と考え直した。

 そのうちこいつは、失った自分の宝物を捜しに旅に出るだろう。今は危なっかしくてとても許可はできないが、いずれは、独りで。そうしてまた今夜のように時々、夜に融ける。

 こいつの輪郭を取り戻してやってくれる奴は、いるだろうか。

 支えるどころか溺れてしまう輩が出るんじゃないか。 こいつはそういう仕草をするから。

 持ち上げて運ぶには重くなった身体を押して寝室へと追いやる。布団にくるまったリンはこちらへと向き直ってくすくすと笑った。

「おやすみ」、と声をかける。

「また明日」、とリンが返した。

長い髪を撫でる。

「よい夢を」


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